

上流バイオプロセスにおけるTime-gatedラマンの有効性
CHO細胞培養を対象とした従来ラマンとの比較研究
2026年8月更新
Timegate Instrumentsから、Duquesne Universityの研究チームがPfizerと共同で実施したCHO細胞培養研究について、Time-gated Ramanと従来ラマンの比較グラフおよび研究結果の解説が新たに公開されました。本記事では、公開された図表を追加し、両方式の分析性能の違いを改めて紹介します。
上流バイオプロセスでは、培養中のグルコース、乳酸、アンモニア、グルタミンなどの成分を継続的に把握することが、工程の理解や安定した運転につながります。
ラマン分光法は、試料を破壊せず、分子に由来する情報を取得できることから、バイオプロセスにおけるProcess Analytical Technology(PAT)の一つとして利用されています。
一方、細胞培養液では、培地成分や細胞由来成分から生じる蛍光が、微弱なラマン散乱を覆い隠す場合があります。蛍光バックグラウンドが強くなると、スペクトルのS/Nが低下し、低濃度成分の検出や複雑な培養状態の評価が難しくなります。
Duquesne Universityの研究チームは、Pfizerとの共同研究において、CHO細胞培養試料を対象に、従来ラマンとTime-gated Ramanの分析性能を比較しました。
本記事では、公開された論文およびTimegate Instrumentsが公開した比較グラフをもとに、Time-gated Ramanが上流バイオプロセスの分析にどのような可能性を持つのかを紹介します。
バイオプロセスモニタリングにおける蛍光の課題
ラマン分光法は、測定速度、非破壊性、化学的な選択性といった特長を持ち、培養工程のリアルタイムモニタリングへの応用が進められています。測定対象としては、主に次のような成分や状態が挙げられます。
・グルコースなどの栄養成分
・乳酸やアンモニアなどの代謝物
・グルタミンやアラニンなどのアミノ酸
・細胞密度
・培養状態
・目的生産物
・培養工程の変化
しかし、細胞培養試料には、培地、ビタミン、タンパク質、細胞由来成分など、蛍光を生じる要因が多く含まれています。
従来ラマンでは、こうした試料由来の蛍光がラマン信号よりも強く観測され、次のような問題が生じる場合があります。
・目的成分のピークが蛍光バックグラウンドに埋もれる
・スペクトルのS/Nが低下する
・低濃度成分の識別が難しくなる
・高細胞密度条件でスペクトルが複雑になる
・多変量解析に利用できる化学情報が減少する
この蛍光干渉は、ラマン分光法を細胞培養工程へ適用する際の主要な課題の一つです。
Time-gated Ramanによる蛍光影響の低減
Time-gated Ramanは、ラマン散乱と蛍光の発光時間の違いを利用します。ラマン散乱はレーザーパルスの照射直後に発生するのに対し、蛍光は一般に、より長い時間にわたって継続します。Time-gated Ramanでは、パルスレーザーと高速時間分解検出器を同期させ、ラマン散乱が多く含まれる時間領域を選択的に取得します。これにより、蛍光そのものの発生を止めるのではなく、測定される蛍光バックグラウンドの影響を低減します。後処理によるベースライン補正だけに依存せず、測定段階で蛍光成分を時間的に分離することが、Time-gated Ramanの特長です。Duquesne Universityの研究チームは、この原理について、次のように説明しています。
パルスレーザーによる励起と時間ゲート検出器を同期させることで、Time-gated Ramanは蛍光干渉を最小限に抑えながらラマン信号を選択的に取得し、検出感度を向上させます。
CHO細胞培養試料を用いた比較研究
研究は、Duquesne University School of PharmacyのMahdi Mubin Shaikat氏らによって実施されました。6回の独立したCHO細胞培養実験から得られた試料を用いて、従来ラマン分光法とTime-gated Raman分光法の分析性能が比較されています。評価対象となったのは、次の5成分です。
・グルコース
・乳酸
・アンモニア
・グルタミン
・アラニン
また、実際の培養工程における試料の複雑性を考慮し、次の2条件が設定されました。
・低細胞密度条件:Low Cell Density(LCD)
・高細胞密度条件:High Cell Density(HCD)
高細胞密度になると、細胞、代謝物、タンパク質、培地由来成分などが増加し、蛍光やスペクトルの重なりが強くなる可能性があります。低細胞密度と高細胞密度の両方で比較することにより、より複雑な細胞培養環境においてもTime-gated Ramanの優位性が維持されるかが検討されました。
Net Analyte Signalを用いた評価
取得されたスペクトルの評価には、Net Analyte Signal(NAS)解析が使用されました。NASは、複数の成分が共存する複雑なスペクトルから、特定の対象成分に由来する信号を抽出して評価するための手法です。この研究では、NASを用いて、主に次の指標が比較されました。
・対象成分に由来するスペクトルの識別性
・Signal-to-Noise Ratio(S/N)
・Limit of Detection(LOD:検出限界)
・低細胞密度条件と高細胞密度条件における性能
S/Nは、対象成分の信号がノイズに対してどの程度明瞭に取得されているかを表します。LODは、その測定方法によって対象成分を検出できる最低濃度の目安です。一般に、S/Nが高く、LODが低いほど、低濃度の成分を識別しやすくなります。
より明瞭なラマンスペクトル
公開された比較では、Time-gated Ramanによって蛍光バックグラウンドの影響が低減され、5成分に由来するラマン情報が従来ラマンより明瞭に観測されました。従来ラマンでは、強い蛍光バックグラウンドやノイズによって、対象成分に由来するピークが見えにくくなる場合があります。一方、Time-gated Ramanでは、グルコース、乳酸、アンモニア、グルタミン、アラニンについて、より明確なNASスペクトルが得られました。


図1:従来ラマンとTime-gated Ramanによる純成分スペクトル(上)とNASスペクトルの比較(下)
図からは、Time-gated Ramanによって背景成分が低減され、対象成分に由来する信号が識別しやすくなっていることが分かります。ただし、ピークが明瞭になることだけで、直ちに対象成分を定量できるわけではありません。実際の工程で濃度を推定するためには、参照分析値を取得し、スペクトルとの関係を評価する必要があります。
S/Nの向上
研究では、低細胞密度および高細胞密度の両条件において、評価した5成分すべてでTime-gated RamanのS/Nが従来ラマンを上回りました。Timegate Instrumentsが公開した比較では、対象成分や培養条件によって、Time-gated Ramanは従来ラマンより約2~5倍高いS/N性能を示したと説明されています。

図2:低細胞密度条件におけるS/N比較 図3:高細胞密度条件におけるS/N比較
特にグルコースや乳酸では、従来ラマンとの差が明確に示されています。例えばグルコースのS/Nは、低細胞密度条件において、Time-gated Ramanが154.4±5.5、従来ラマンが12.7±0.3でした。高細胞密度条件においても、Time-gated Ramanが35.8±1.0、従来ラマンが2.3±0.2となり、複雑な試料条件でもTime-gated Ramanの方が高いS/Nを示しています。また、アンモニア、グルタミン、アラニンのように、比較的弱いラマン信号を示す成分についても、Time-gated RamanによるS/Nの改善が確認されました。
検出限界の低下
LODについても、Time-gated Ramanは、評価されたすべての成分で従来ラマンより低い値を示しました。

図4:低細胞密度条件におけるLOD比較 図5:高細胞密度条件におけるLOD比較
例えば、グルコースのLODは、低細胞密度条件において、Time-gated Ramanが0.0255±0.011 g/L、従来ラマンが0.865±0.278 g/Lでした。高細胞密度条件では、Time-gated Ramanが0.2245±0.028 g/L、従来ラマンが7.57±0.65 g/Lでした。LODが低くなることは、培養中の低濃度成分や、小さな濃度変化を把握できる可能性が高まることを意味します。これにより、培養初期の変化、フィード後の応答、代謝状態の変化、工程異常の兆候などを、より早い段階で捉えられる可能性があります。
高細胞密度条件における測定性能
高細胞密度の培養液では、細胞数の増加に加えて、代謝物、タンパク質、細胞由来成分なども増加します。その結果、試料の光学的・化学的な複雑性が高まり、蛍光バックグラウンドやスペクトルの重なりが強くなる場合があります。本研究では、低細胞密度条件だけでなく、高細胞密度条件においても、Time-gated Ramanが従来ラマンより高いS/Nと低いLODを示しました。これは、培養後期や高密度培養のように、従来ラマンで測定が難しくなりやすい条件においても、対象成分の情報を取得できる可能性を示しています。一方で、高細胞密度条件ではTime-gated RamanのS/Nも低下しているため、試料の複雑化による影響が完全になくなるわけではありません。実際の工程へ適用する際には、培養期間全体を通じて測定性能を確認し、培養初期から後期までモデルが成立するかを評価する必要があります。
研究結果が示すこと
本研究では、CHO細胞培養試料において、Time-gated Ramanが従来ラマンより次の点で優れた結果を示しました。
・5成分に由来するラマン信号が明瞭になった
・低細胞密度と高細胞密度の両条件でS/Nが向上した
・すべての対象成分でLODが低下した
・高細胞密度条件でも対象成分の情報を取得できた
・上流バイオプロセスにおけるPATへの応用可能性が示された
研究チームは、S/NとLODの結果について、Time-gated Ramanが信号の明瞭性を高め、背景ノイズを低減することで、従来ラマンよりも代謝物の識別と定量に適した情報を取得できる可能性を示したとまとめています。
ただし、この研究結果は、Time-gated Raman装置をバイオリアクターへ接続すれば、直ちにすべての成分をリアルタイムで定量できることを意味するものではありません。
この研究で直接比較されたのは、主にNAS、S/NおよびLODです。実際の工程モニタリングへ展開するためには、各工程の試料を用いて、予測モデルの構築と検証を行う必要があります。
バイオリアクターモニタリングへの展開
Time-gated Ramanをバイオリアクターへ適用することで、将来的には次のような活用が考えられます。
・培養中の栄養成分や代謝物の継続的なモニタリング
・手動サンプリング間に生じる変化の把握
・培養状態や代謝状態の変化の早期検出
・ケモメトリクスモデルによる濃度や工程状態の推定
・フィード条件や培養条件の最適化
・工程結果の予測
・Process Analytical Technologyへの展開
・データに基づくバイオリアクター制御
測定プローブをバイオリアクターへ直接設置できれば、培養液を毎回取り出すことなく、継続的にスペクトルを取得できる可能性があります。ただし、実際に連続モニタリングや工程制御を行うためには、測定装置だけでなく、参照分析、データ処理、予測モデル、装置接続、洗浄・滅菌、モデル管理などを含めたシステムの構築が必要です
実工程への導入前に必要な評価
Time-gated Ramanを実際のバイオプロセスへ導入する際には、一般に次のような段階的な評価が必要です。
1.実試料でスペクトルを取得できるか
対象となる培地や細胞培養液を測定し、蛍光の強さ、ラマンピーク、S/N、再現性を確認します。
2.対象成分や工程変化を識別できるか
グルコース、乳酸、アンモニアなどの対象成分、または培養状態の変化がスペクトルに反映されるかを評価します。
3.参照分析値との関係を確認する
HPLC、バイオアナライザー、細胞分析装置などで得られた参照値と、ラマンスペクトルとの関係を評価します。
4.複数バッチで再現性を確認する
異なるバッチ、培地ロット、細胞密度、培養条件でも、同じ傾向が得られるかを確認します。
5.予測モデルを構築する
取得したスペクトルと参照値を用いて、ケモメトリクスモデルを構築します。
6.未知試料でモデルを検証する
モデル構築に使用していない独立したバッチや試料を用いて、予測性能を検証します。
7.実際の測定環境へ適合させる
プローブの設置、リアクターサイズ、光学アクセス、周囲光、温度、洗浄、滅菌など、実運用上の条件を確認します。
既存の分析方法との関係
Time-gated Ramanは、HPLC、バイオアナライザー、細胞分析装置などの既存分析法を、導入直後から完全に置き換えるものではありません。モデル開発の初期段階では、既存の分析方法で得られた参照値が必要です。参照分析値とラマンスペクトルを組み合わせることによって、対象成分の濃度や培養状態をスペクトルから推定できるかを評価します。モデルの性能と適用範囲が十分に確認された後に、サンプリング頻度の削減、at-line分析の効率化、in situモニタリング、工程制御への展開を検討します。
共同研究体制
本研究は、大学、製薬企業、分析装置メーカーが参加する共同研究として実施されました。Duquesne Universityは、研究の主導と実験設計を担当しました。Pfizerは、バイオ医薬品製造に関する科学的知見と産業界の視点を提供しました。Timegate Instrumentsは、Time-gated Raman分光装置と測定技術を提供しました。また、本研究は、National Institute for Innovation in Manufacturing Biopharmaceuticals(NIIMBL)のProject Award Agreement、および米国商務省National Institute of Standards and Technology(NIST)の資金支援を受けて実施されました。この共同研究は、Time-gated Ramanを研究室内の分光技術から、実際のバイオ製造工程で使用できるPATへ発展させるための取り組みの一つと位置づけられます。
今後の研究
今後は、ケモメトリクスモデルを構築し、動的に変化するバイオリアクター環境において、対象成分の濃度を予測できるかを検証する必要があります。また、実際のバイオリアクターへのプローブ統合、異なる細胞株や培地への適用、発酵プロセスへの展開、スケールアップ時のモデル移転なども検討課題となります。ラボスケールで構築したモデルを製造スケールへ展開する場合には、装置構成、リアクター、プローブ位置、培地、運転条件などの違いによる影響も評価しなければなりません。本研究で示されたS/NとLODの改善は、こうしたモデル開発と工程モニタリングを進めるための重要な基礎データといえます。
まとめ
Duquesne Universityの研究チームは、CHO細胞培養試料を用いて、従来ラマンとTime-gated Ramanの分析性能を比較しました。その結果、Time-gated Ramanは、グルコース、乳酸、アンモニア、グルタミン、アラニンの5成分について、従来ラマンより明瞭な信号、高いS/N、低いLODを示しました。低細胞密度だけでなく、高細胞密度条件でも優位性が確認されたことは、複雑な上流バイオプロセスへTime-gated Ramanを適用するうえで重要な結果です。
Time-gated Ramanは、蛍光によって見えにくかったラマン情報を取得し、細胞培養工程の化学的な状態をより詳しく理解するための手段となる可能性があります。一方、実際のプロセスモニタリングや工程制御へ展開するためには、実試料での測定、参照分析値の取得、複数バッチでの検証、予測モデルの構築、実環境への適合性評価が必要です。Photontraceでは、Time-gated Ramanをバイオプロセスへ展開するため、実試料を用いた測定可否確認から、導入前評価、モデル開発に向けたデータ取得まで、段階的な評価をご提案しています。
参考文献
Shaikat, M. M., Dhara, V. G., Drennen, J. K. et al.
“Enhancing analytical sensitivity in upstream bioprocess using time-gated Raman spectroscopy.”
Bioprocess and Biosystems Engineering, 2025.
Li, M., Ebel, B., Chauchard, F., Guedon, E., Marc, A.
“Parallel comparison of in situ Raman and NIR spectroscopies to simultaneously measure multiple variables toward real-time monitoring of CHO cell bioreactor cultures.”
Biochemical Engineering Journal, 137, 205–213, 2018.
Timegate Instruments
“Time-Gated Raman Spectroscopy for Upstream Bioprocess Monitoring”
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